生きることの最大の障害は期待をもつということであるが、
それは明日に依存して今日を失うことである。
『人生の短さについて』 【セネカ】
* * *
シュルンッ。
何とまぁ、呆気なく消えてしまうことだろう。
古ぼけた本に、私とフェール。
それだけを置き去りにし、ひぃ祖母様は消えてしまった。
あんなに騒がしかった空間が、ここまで静まり返るとは。
それにしても、彼女とこんな出会い方をするなんて、思いもしなかったなぁ。
「あ゛ー、そういえば昼ご飯がああ」
ぐぎゅるる―…と今更、腹の虫が喚く。
腹を押さえながらうなだれた。
全く、一段落したらコレだ。
先程 ひぃ祖母様が用意したグロテスクな昼ご飯は、彼女と一緒に消えてしまったので、
作らないとならない。
とりあえず、腹拵えを優先しよう。
「ちょっとフェール、ボケッとしてないで昼ご飯 用意するわよ。手伝って」
『――…え』
「野菜炒めくらいしか手軽に出来ないなぁ。
あっ、あの激辛ソース混ぜたらソコソコ美味いかも。うん、そーしようか」
おっ、そうだった、フェールの汲んでくれた水のことも忘れていた。
野菜はすぐ洗えるから、とっとと皮をむいて切って水に浸し、根菜類は少し煮るかな。
なんとか20〜25分くらいで出来ると良い。
「それから、時間 勿体ないからひぃ祖母様についての説明を、準備しながら聞かせてちょうだい。
昼ご飯 食べながらは嫌だからね。時間が足りないなら、お昼の後でも良いからさ」
『あっ――あぁ、分かった』
そう釘を刺して、それぞれ動き出した。
ジャバジャバとニンジンやゴボウを洗うフェールに、まな板や皮切り、包丁を用意する私。
後、お湯も沸かさなければ。
それから先にキャベツを切ろうとした。
『一つ、色んな説明する前に、言わなきゃいけないことがある』
ピタッと一瞬だけ、腕を止める。
まだ何か怯えを纏った声色。一言一句、聞き逃してはならない。
ザクザク、キャベツを切るのを再開しながら耳だけは違う方へ。
『俺はお前が、グレイプニル家だって知ってた。
彼女も――お前の曾祖母、グレイアもそうだって、知ってた』
ガラガッシャン。
持っていた包丁をまな板の上でひっくり返す。
まずい、キャベツも少し落ちた。
だが、そんなことなど些細なこと。
「……――は?」
『俺は』
あぁ何でだろうか。
今まで必死に積み上げたものが、崩壊していく。
土台から。
『狼族古代種、フェンリルの血を継いでる。
だからどうしても、お前じゃなきゃいけなかったんだ。
他の魔法使いごときじゃあ、俺を押さえ付けるなんて不可能だったから』
罪悪感だとか、後ろめたさだとか。そういったものを、彼は感じている。らしい。
そう思うのに比例し、私の胸の痛みが刺す。
一本一本、小さな針が突き刺さる。
「ちょ、ちょと、ちょっと待って、あんた、仲間がどうとかって、嘘だったわけ?」
『あー、まぁ、ほとんど死んじまっていない。はぐれたってのは、あながち間違ってないんだけど?』
引き攣る喉を無理矢理 押さえ込んで、しかし動揺を隠すなんて不可能。
内臓ごと、痙攣するようだった。
『グレイアと何十年か前に出会って、そのときに自分自身を制御する魔法をかけてもらった。
その効力が切れかけたから、慌ててグレイ、お前の所に来たってわけ』
「制御、魔法?」
『【巨狼化】を防ぐ、複雑な魔法だ』
フェンリル家の最大の武器にして、最悪の形態。
普通の狼族ならば、狼化は一種類しかない。だが、古代種の彼は違う。
自我や自制を代償にし、ゆうに5メートルは越すであろう狼へと変貌する。
巨大な牙で噛み砕かれれば即死。足で踏まれただけで圧死する。
かつての大戦争でその犠牲になった種族は数多。
特に、吸血鬼族はかなり殺されたはず。
『この制御装置があってくれたから、意外に早く事は済んだ。助かったよ、本当に』
片手で、銀色の上から首を絞めながら、フェールはちっとも安堵などしていない。
こんなの、ないよ。
どっちもどっちで、苦しいだけじゃないか。
「……そっ、か」
落ちたキャベツを拾い上げ、天井を見上げ、必死で笑う。
笑え、笑え。
いつも通りの、光景ではないか。そうだろ?
いつも通り、ただご飯の準備をしている。
「知ってたのかぁ、私がグレイプニル家だ、って」
それは魔物全般に恐れられた、特に狼族が敵視した唯一の人間の、一族。
悪魔祓いではないのだが、おそらく数ある魔法使い一族の中で、
最も多くの魔物を奴隷扱いし、殺してきた。
そう、拷問した、挙げ句。
『不思議だった、何でお前はグレイプニル本家にいないのか。
豪華絢爛な城みてぇな家があるだろ? こんなヘンピな所に住んでるなんて…』
「もえた」
あぁ、もう包丁なんか握っていられるものか。
「全部だ、全部もえた。私の一族は、ミナゴロシ。
肉が爆ぜ、血が霧散し、骨だけ遺して、もえ尽きた」
かたかたかたかた。
一定のリズムを刻み、回る映写機。光のさした先に朧げに浮かんだ、地獄絵図。
ここまでボヤけさせるのに、どれだけ時間がかかったか。
記憶消去の魔法は、不器用な私にとっては、難しい。
これはもう、昼ご飯抜きが決定した。
あー、空腹の絶頂が過ぎてもう腹の虫は死んじゃった。
「地下にある、書物庫や魔物達を閉じ込めた牢屋だけは無事で、それで――」
『何で、お前は、助かった?』
「――私、は」
きかれるであろうことは、分かっていた。
予想通り、フェールは当然の質問をする。
喉はカラカラ、水は近くにあるのに、飲めやしない。
飲めば、言葉が沈んでしまう。
「魔物達と、仲が、良かった、からッ」
そんな些細な、理由。
まるで、子供のような言い分。
「私、出来損ないで、能力低くて、黒魔術も使えない、
役立たずで、一族も見放してて、あんまり魔物達と変わんなくて、
酷い立場が同じで、だから、友達に――」
―ともだち、ほしぃなぁ―
そう、呟いたのは、私だけじゃない。
地下牢屋に閉じ込められた、数多の魔物達が唯一の、話し相手。
もしかすれば彼らは、私に入れ込もうとしていたのかもしれない。
だがそれでも、良かった。
だって、冷たい石の上以外のどこに、私の居場所があったという。
―ひぃ祖母様の血を、色濃く継いでると思ったのに―
灰色の瞳だからと、なぜそう決めつけられなければ、ならない。
母はその言葉を、私が幼いから理解出来ないとでも思ったのか。
ひぃ祖母様に憧れた。私みたいな出来損ないとは違った、完璧な魔女に。
奴隷の魔物を尊んだ。身体は傷つき尽くし、それでも望みを捨てない彼らの瞳を。
愚かでチッポケな己を、蔑んだ。何の力も持てない、持つ気も失せた、この腕を。
「いっ、家の隠し、通路、だとか、屋敷の見回り、のタイミング、だとか、
魔物の、他の、仲間に、漏らした、から、から、だから、……だから」
グレイプニル家の所業は、もう外の魔物達には知られていた。
だから何度も屋敷を陥落させようと、彼らの攻撃を受けた。――…のに。
そんな魔物の行動ですら、我が一族の思惑にすぎなかった。
そう、一族はわざと魔物達へグレイプニル家への憎悪を湧かせ、
意図的に屋敷を襲うように仕向けていたのだ。
新たな奴隷は、地獄に引きずり込まれた奴隷の、補充にすぎない。
魔物はいくら死んだとしても いなくならないとでも、思っていたのか。
みすみす、死にに逝く魔物達を放ってはおけなかった。到底、私には。
「私、一族、売ったんだ、魔物に、もう、イヤで、解放、されたかった、
彼らと一緒に、解放されたかったんだ!! 解放されたかったんだ!! 解放されたかったんだ!!」
それはすごく、簡単なこと。
いつも使ってる、屋敷から抜け出すための通路。一族の誰も知らない、秘密の抜け道。
それを、出撃前夜の魔物の群に、死を覚悟して伝えに行く。
牢屋で衰弱死した一匹の魔物の、血と肉のついた骨を握り、走った。服や髪にも、血がこびりつく。
その香りを纏えば、グレイプニル家でないことが証明されるから。
グレイプニル家は、極度に魔物に触れることを嫌ったのだ。
私の情報で作戦を変更し、魔物達は見事に屋敷を陥落させた。
「全部、終わった後、殺される、気がしたけど、仲間の手で、
解放された奴隷の、魔物達が、護ってくれた、こいつは仲間だって、言ってくれて」
一度も、たったの一度も、家の人達が言ってくれなかった言葉を、彼らはくれた。
でも、それでも、大勢の人々が死んだのは事実であり、私はそれを忘れてはならない。
罪悪感がない、なんて、言えるわけがないのだ。
私は、罪悪感の塊。
釘を打ったって、突き刺さらないほどの。
「この家も、見つけてくれたのは魔物。
残された書物を出来る限り運んでくれたのも、魔物達だった。
私は、魔物に救われた。――独りなのは、変わらなかったけど」
魔物達と、一緒には住めなかった。彼らには彼らの想いがあったから。
今でも人間への復讐を考え、人間を殺している奴もいるだろう。
今では閑静に緩やかな日常を手に入れた、そんな奴もいるだろう。
そんな彼らの、過去の傷は癒されたかは、知る由もない。
また会おうとも思わないし、例えいつか偶然擦れ違っても、もうお互いに分からないだろう。
それで、良い。
「この地域は、滅多に魔物が出なくて、近くの村にしか人間はいないし、
だから色んな意味で寂しかったけど、安心はしたよ。
誰にも深く関わらなければ、傷つけられることも、傷つけることもないから」
それを不幸せだと、人は言うだろうか。
いいや、不幸せなわけがない。
だって、そんな判断を出来るのはコノ世のどこにも、いないじゃないか。
私ですら、私の幸せも不幸せも分からない。
『―――…お前、もだったの、か』
ポツリッ、零れた呟き。
拾い上げるのはたやすく、握りしめるには重い。
『はっ、はは、バッカじゃないのか、自分のことで手がイッパイなくせして、
魔物なんか助けてさ。それで家族は焼き殺された、ってわけ?』
笑ってないよ、声も顔も。
今の私達は、干からびちゃった湖にいる、渇きに喘ぐ魚みたい。
手足をバタつかせて、口を開閉するだけ。
ねぇ、なんて情けなく、見苦しい姿。
『やっぱ、お前は、グレイアの血を引いてるよ』
どこがだよ。
そうツッコミを入れる気も失せて、両手をまな板の上で握りしめる。
そんなこと、フェール、お前には言われたくない。
ひぃ祖母様の名を、そんな軽々に言ってのけて欲しくない。
今の今まで、お前の口から決して出てこなかった、その名を。
なんで、いきなり私の知らないお前になるんだ。
なんでお前の知らない、私にならなきゃいけないんだ。
『もうずっと前の話さ。
グレイプニル家を筆頭にして、人間が それぞれの古代種の 殲滅に乗り出したことがあるんだ。
それが、グレイアと出会ったきっかけ。フェンリル族が標的にされたことが、あったから』
それは、私も聞いたことがある。
誇るように一族でよく、語られたネタだ。
そう、一族にとっては話のネタに過ぎなかった。
『……先陣をきって魔物を相手にしていたあいつは、まるで鬼みたいだった。
容赦のカケラもない。あいつに続くまま、他の人間は魔法を繰り出してた』
行われたのは、大量虐殺。
迷いなどない、最悪の戦場。
喰うか喰われるか、たったそれだけの簡潔な話。
『爆撃、毒ガス、酸の雨。
非道な上級黒魔法を操り、俺の仲間はどんどん死んでいく。
フェンリル家は一匹いるだけでも戦力になるはずが、相手がグレイプニル家だとわけが違う』
知ってるよ。
本来ならば私は吸血鬼と並ぶほど、お前の最大の天敵。
でも、良かったな。私には全然、力がないから。
お前が心配することなんて、何もない。
グレイプニル家は、物質をイオンに分解する技に長けていた。
『【狼族封じ】に長けた、唯一の血統。グレイアが何したか知ってっか?
空気中に高濃度銀イオンを生成しやがった。直に吸ったフェンリル族は即死。
皮膚からジワジワ浸透されて、苦しみながら死んだ奴もいる。まるで拷問だ』
それは、伝説。
たった一枚の、少し分厚めの銀板。ひぃ祖母様はそれを、イオン状態に分解。
自然の摂理に、かなり逆らってしまうその魔法は、簡単に扱えるものじゃない。
さらに彼女は、その銀イオンの空気を意のままに操ったのだ。
そこで使った魔法は、己の魔力で一定空間を支配する、超上級黒魔法の一つ。
本当に、ひぃ祖母様は無茶苦茶で、最高で、最強で、――最恐の、魔女。
フェンリル族は、そもそもひぃ祖母様に立ち向かおうとした時点で、
奈落の底に向かって走っていったような、もの。
『俺は巨狼化に陥り、見境なく暴れ回ったよ。
もう、勝ち目なんてなかった。分かってたさ、それくらいッ』
歯を噛み締めるフェールに、何も言えない。
周りには、きっと数多くの事切れた仲間が、転がっていたはずだ。
それを踏み付けながら、彼は猛り狂ったのだろうか。
血と肉は土に沈み、彼が走るための土台となったのかも、しれない。
フェールの目に浮かんでいるものを、私が知る由もない。
『銀イオンは、かなり飲み込んでた。
巨狼化のおかげで血管も太くなってくれて、すぐ死ななかったけど。
それでも手足に走る激痛は、もう壊死寸前であることを俺に教えてくれた。
動ける内に考えてたことは、どれだけ人間を殺せるか、だ』
決して、逃げる、という選択肢には辿り着かなかったのか。
そんなの、どうしたって、どうしようも、なかっただろうに。
確かに大勢の人間に向かっていって、一矢報いることも大事だったかもしれない。
でも、他にも大事なことはなかったのではないか。
生き残ることこそ、優先されるべきことではなかったのか。
そんな馬鹿げたキレイ事など、決して彼には言わない。
言えや、しないんだ。
呑み込んだ言葉、溢れそうな涙。眉間と鼻が熱くなって、足先は冷えていく。
『最終的にグレイアと、一対一に、なれば、
口の中に溢れ返る人間共の血と肉が渇く。
内臓の臭いが鼻を覆って、もう意識は朦朧としてた。
…もう目の前にいるのは、誰でも、良かったんだ』
巨狼化をしてしまえば、理性が失われる。正気でなくなる。
その巨狼を目の前にし、ひぃ祖母様は何を思っただろう。
たった一匹、狂い吠えながら向かって行っただろう、その一匹狼を、見て。
その毛並みと瞳はきっと、悲しいほど真っ黒だったのかな。
『あいつは、ずっと笑ってた。いつまでも、最後まで、
―――……俺に仮死状態にさせる魔法をかけるまでは、な』
「――――ぇ」
仮死、だと?
思わず声が零れた。
だって、そんな状況でひぃ祖母様が使うべきは、即死魔法だったはず。
仮死魔法だなんて、そぐわない。
俯き気味だった顔を上げて、フェールと顔を合わせる。
彼は、笑っていた。
ように見えて、笑ってなかった。
瞳が。
『一気に意識を引きはがされて、その後に気が付けば、知らない小屋で眠ってた』
――…ん?
何だって?
「ぇ、へっ?…… ひぃ、祖母様が――助け、た?」
『そうだ、何でか分かる?』
首を横に振る。
なんだ、混乱してきたぞ。
そんなことをしたひぃ祖母様の、目的はなんだ。
『あいつはな、古代種を絶滅させる気はなかったのさ。
それどころか、最初から、古代種を捕らえるために動いてた、ってわけ』
な、に?
← →