希望とは、もともとあるものともいえぬし、ないものともいえない。
それは地上の道のようなものである。
もともと地上には道はない。
歩く人が多くなれば、それが道になるのだ。
『阿Q正伝・狂人日記』【魯迅】
* * *
━━━━その日はえらく、空が晴れ渡っていた気がする━━━━━━━━
朝起きて、畑の薬草への霜の降り具合を確認。
枯れないように、温める呪文を唱えて、家に戻ろうとした直後。
ふと目に入った、毎日お世話になっている井戸の傍ら。
見つけたのは、黒い黒い大きな塊。
(……━━━━?)
そこにも霜が降りていて、まるで岩のようだ。
なんだこれ。昨日までなかったのに。
警戒心を全開にして、ゆっくり近づいてみる。
大人一人分が蹲ったようなサイズ。
全体をなめるように見回してみても、やっぱりただの塊。
(邪魔だねぇ、もー)
溜息を付きつつ、フトコロに忍ばせてある杖を取りだした。
その黒い岩がある場所というのが、ちょうど井戸から水を汲む所。
私の作業を妨害すること、限りない。
そのままにしておくのは面倒なので、魔法で移動させることにした。
漬物石……にするにしても大きすぎるしね。
用途が他に見当たらないなら、捨てるしかない。
杖をちょちょっと振って、黒い岩を浮かび上がらせた。
ポロポロと黒い岩についていた泥が落ちる。
その下では、岩の下で温まっていた生き物たちがワラワラ逃げ出した。
ごめんね、別にあなた達の邪魔をするつもりはなかったんだ。
(よしよし、それじゃぁ家の近くにある池にでも落として━━━……?)
ぼっちゃん、と黒い岩が冷たい水に沈んでいく光景を想像した、時。
不意に、視界にウゴメきが映し出された。
そう、現在浮遊真っ只中の黒がウゴメいた気がしたのだ。
ちょっと驚いて、岩をゆっくり地面へと下ろした。
気のせいか、としゃがんでジッと黒を見続けてみる。
すると、またピクッと肉が跳ねた。
うわっ。何だ何だ。 気持ち悪っ。
(あっれー、コレ生きてんの? 生き物?)
指でツツいてみたら、意外に柔らかい。岩じゃなかったのか。
ちょっと怖いながらも、好奇心が勝る。
ぐにぐにとした感触、ざらざらした毛並み。
……毛?
(あれ、コレ動物、か?)
後ずさりしながら、杖を構える。
ただの獣ならば良いが、魔物だとタチが悪い。
魔物への対処なんて、私は出来ないって。
黒から目を離さないように、家へ家へと体を向かわせた。
いや、待て、ちょっと保険をかけておいた方が良いかもしれない。
低級黒魔法程度なら、何とか出来るはずだ。
杖を黒へと振り上げて、火炎魔法を少し放つ。
岩を取り囲んだ赤い揺らめきに安心し、私は大急ぎで家へと飛び込んだ。
暖炉がお迎えしてくれたものの、暖まっている余裕などない。
(どっ、どどっどうしよう、どうす━━━)
久しぶりにも程があるほど久しぶりに使った、黒魔法。
心臓がバクバクうるさい、全く今日は朝からついてない。
杖を両手で握りしめ、私は深呼吸を繰り返した。
(あの黒、何なんだ、結局、っていうか大丈夫、かな?)
家に入って対策を考えようと思ったが、そこでハタと気づく。
相手の様子が分からない状態で、どう対処法を探せと言うのだろうか。
黒から目を離さない方が得策、ではなかっただろうか。
今更、遅い。
(あああああどうする私いいい)
窓から外の様子をうかがい、黒がどうなっているか見ようとした。
けれど、それは見事に妨害されてしまう。
私が窓に近づこうとした刹那に、黒い塊が突進してくるのが見えた。
どんがらがっしゃーん!!
盛大にガラスの破片が撒き散らされて、私の部屋は大惨事。
いや、コレは魔法で片づけられるから良い。
問題は、今の問題は、問題は、問題は問題は問題は!!
「ぎぃいいやあぁああぁあぁぁあああああ!!」
絶叫して、侵入してきた黒から逃げようとした。
何とも最悪なことに、黒は私の足元へ転がって来たからだ。
もういっそのこと、割れた窓から出てやろうかとも考えた。
しかし、どんな考えが巡ろうとも全く役に立ちはしない。
唐突に、私の足首に何かが伸びてきた。
「!?ぎゃっ」
そのまま、掴まれる。
尻餅を付き、私は腰が抜けてしまった。
逃げようとしたが、足がすくみ力も入らない。
黒い何かが伸びたまま足首を放してくれない。
絶句して動けなくなった私。
(にげッ、にげろ、にげ)
パニック。
混乱している私を置き去りに、黒いそれが動き出した。
ムクリッと、いきなり起き上がる。
……起き、上がる?
目を見開いて、黒をひたすら穴が開くほど見つめた。
まさか、まさかそんなまさかまさか違う夢だ幻だ。
パニックな私の頭の中などなんのその。
その動作に合わせて、黒は形を変えていった。
最終的に、━━━人、になる。
(あ、あ、あ、あああああああ)
黒の正体を、認識した。
本でしか見たことがない、この地域にはいないはずの生き物。
もう少し限定して、魔物。
さらに限定すれば━━━
『うわぁー……寒ぃ』
狼、族。
『あっ、火をどーも。けど、やっぱ服が欲しいなぁ。あんた持ってる?』
硬直して青ざめた私に、ちょっと照れたような表情を向ける奴。
ヒッ━━と引き攣る声しか出ず、その問いに答えることは出来なかった。
足の裏やお尻からジワジワ浸食してくる、寒さ。
カチカチと震える歯列、ひくっと引き攣る喉。
杖を握る指の感覚もなくなっていく。
『あれ、おーい、聞こえてる?』
私の心意など、知るはずもない男。
相手が全裸だから恥ずかしがる、なんて余裕もない。
ただ、ひたすら、頭は「逃げろ」としか命令を下さない。
その命令に従うべき体は動かない。悪循環が堂々巡り。
あー、本当に運が悪い。
上級黒魔法は不得意だ、魔物と戦ったこともない。
勝ち目も、ない。
『ぶぇっくしッ!! だぁー寒い!! ねぇ服っ、服ないの!?
凍死させるつもり!? いい加減に何か反応してくんないかなぁ!?』
「ヒェッ、は!? あ、いや、へ?」
トコトン間抜けな応答だった。
目尻に涙が浮かんで、それでも狼の『服!!』という叫びは聞き取れた。
慌てて杖を握り直す。
服を出現させる呪文は、もうとっくの昔に習得している。
初級白魔法の、一つだ。
『おー、センスあんじゃんか。どーもありがとう』
震える手で、何とか奴に服を与える。
凍死の危機から解放され、奴は満面の笑みで礼を言った。
さっきまであんなにギャァギャァ喚いていたクセに。
黒の塊のイメージがあったせいか、黒を重視した服が出現してしまう。
それは逆効果で、私の恐怖を煽った。
これで、終わりか。
なんでヨリにも寄って狼族なんだ。
もっと他の種族ならば、まだマシな運命が辿れたかもしれないのに。
いや、だからといって吸血鬼族とか幽霊族とかも嫌なんだけど。
泣きそうになる私。服が着られて喜んでいる狼男。
シュールな光景、誰か他に人がいれば一笑されそう。
『さて、じゃぁ俺はこれで』
「……━━━へ?」
何とも、この光景に似つかわしくない爽やかな表情。
私の思惑に反し、彼はニコヤカに別れを告げた。
てっきり、喰われることを覚悟していたのに。
あまりに予想だにしていなかった発言に、思考が停止。
相変わらず腰の力が抜けたままだったが、さっきとは別の意味になっている。
『いやー助かったよマジで、かなり困ってたもんでさぁ。凍死するの覚悟してたんだ』
握手まで求められ、訳も分からず握り返してしまう。
目を白黒させて、上下する自分の手を眺める。
『あんたの炎で復活できたんだ。ありがとな、感謝してる。
あーぁ、そういえば窓割っちまったなぁ。すまん。
あんたが家に入っちまったから。闇雲に追いかけちまった』
「はぁ…」
感謝のお次は謝罪。
すると、何ともあっさり玄関へ向かい始めた。
狼男が律儀だなんて、イメージが合わない。
そう思うのは偏見かもしれないけど。
背を向けて出て行こうとする彼。危機から解放された私。
どこか違和感のある安堵に包まれて、ただ彼を呆然と見送るしかない。
しかし、一体何だろうか、この妙な感じは。
『あっ、やば』
体のどこか分からない所から、もやもやが出現しかけた時。
風に乗り、耳に入って来た呟き。
ふと、玄関の前にまた現れている、黒。
散乱した服はすぐに消えてしまう。
状況の変化に脳内が追いつかない。
ちょっと待て。
「えっ、なっ、ちょ、何で」
どうしろって言うんだよ!!
そんな叫びなど奴には聞こえない。
黒の塊は堂々と、玄関の傍で丸くなる。
「っ、どーせなら場所を移動しなさいよッ!!」
どうして私の邪魔になる所ばかりに居座るんだ!!
かくして、そのまま放置しておくわけにもいかず、私は狼を拾うことにした。
この際、開き直りだ。ちょうど人手が欲しかったところだし。
不安がない、なんてことはない。大あり過ぎて頭がオカシクなりそうだ。
でも上手く使えばこの状況は、かなり役に立つ。
こちらとしても、別に完全にマズイというわけではない。
コイツを全く使えない、ということはないからだ。
何も知らない狼は、気持ち良さそうに、寝息を立てているだけ。
起きてどうなっても知らないからな。
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